言論出版妨害事件

1969年9月、政治評論家の藤原弘達氏が「創価学会を斬る」を出版するという予定を知った創価学会は、公明党の中央幹部であった藤原行正都議、聖教新聞主幹の秋谷栄之助氏を藤原弘達氏宅へ訪問させ、「出版の中止」「題名の変更」「出版時期の延期」「原稿の閲覧」「池田会長について言及しない」等の措置を要求した。
藤原弘達氏がこれを拒否したため、竹入公明党委員長が当時の自民党幹事長であった田中角栄氏に依頼。
田中角栄氏は料亭で2度にわたり藤原弘達氏と接見し、「公明党の資金で出版本の著作の大半を買取る」「NHK解説委員への就任」などの条件を提示し、事態を収束させようとした。
しかし藤原弘達氏はこれも拒否し、この事実を共産党の機関紙「赤旗」にリークした。
そして共産党を先頭に「出版と言論の自由を侵す悪質な妨害である」との追及が始まった。
言論人や文化人から「言論・出版の自由に関する懇談会」が設置され、社会的な関心事となり、創価学会は世間の非難にさらされた。
国会でも大きく取り上げられ、政教一致問題がクローズアップされた。
池田大作氏の国会に証人喚問する話が出るようになると、公明党議員はこれを阻止するため必死で他党議員へ陳情をおこなった。
この時、池田大作氏は公明党議員へ「私を守れ」と連日のように指導していたようである。

1970年5月の創価学会本部総会で池田大作氏は「言論出版妨害事件」について謝罪、政教分離を宣言し、収束した。