富士宮の百条委員会と池田氏喚問の動き

1975年、静岡県富士宮市において敷地面積約37万坪に及ぶ広大な富士桜自然墓地公園の建設に着手した。
1980年頃、この工事を請け負った地元の日原観光開発の関連会社、日原造園の脱税摘発に端を発し、
墓苑を舞台にした「土地転がし」や「農地法違反」、「市行政との癒着」が表面化した。
富士宮市議会は墓地問題に言及、特別調査委員会(百条委員会)を設置に動いた。
また、地元住民によって、「創価学会を富士宮市から追い出す」街頭デモまでが行わる騒ぎとなった。

その後、公明党市議らが地元市議会議員を取り込み、また公明党議員が中央政界に働きかけるなどし、富士宮市議会は百条委員会の設置に関して賛成・反対が真っ二つに分かれる結果となった。

この問題に際し、後藤組の元組長、後藤忠政氏は自叙伝である「憚りながら」の中で、
富士宮の墓苑問題で反対住民の押さえつけを頼まれたと語っている。
山崎正友氏を仲介とし、「池田さんもよろしく言っている」と聞いたとの事である。
その後山崎氏は失脚し、代わりに藤井富雄氏(元都議)が仲介役を引き受けることになったとされる。
しかしながら、創価学会側が都合が悪くなると後藤組を煙たがるようになった。
後藤氏は後藤組の組員が創価学会のために服役しているにも関わらず、そのような態度を取られたため腹が立ったという。
その後「池田会長の真意が聞きたい」と、池田会長と竹入委員長に約束の履行を促す内容証明郵便を送りつけている。
そして信濃町での街宣車の取り囲み、創価学会本部での発砲事件、それに対し創価学会側が詫びを入れてくるという事態に発展した。

憚りながら